昭和56年8月25日 朝の御理解 【入力者:岡村和一郎】
御理解15節
「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化を…」
神様の私ども氏子に掛けて下さる願いというのは、どういうところにあるだろうか。例えば、今日あたりの御理解の中から頂く、よーく頂かしてもらわなければならないと思うですね。
昨日、研修の時に、ちょうど、あーあ、椛目の妹が、ここの経理を毎日受け賜わっておりますので、今月の支払いのことをお届けを致しておりましたが、先月は2千数百万出しております。もちろん火災保険が600万という大きなのがございましたから、火災保険だけが600万から、600何十万あるです。うーん。
けんまあ、今年、今月は1千何百万かです。まあ、それでもこれが、まああのー、さあいろいろ皆に、ならご信者さんにやら総代さん達に、もうこんな支払いがあるからと言うて話すことも相談することも要らずに、でけていっておるということは、さすがに合楽だなと思いましたけれども。
(なら私もするばってん?)、やっぱびっくりしました。電気代が100万から以上です。普段こうやって冷房を、おーまあ、あー完備しておるわけじゃないけれども、まああの、うーん、使うたり電気を使うのが、100何十万。もうそりゃあ、いっちょいっちょ聞いていきよんなら、ほぉーっちゅうごとあるです。ね。
それが、やはり借金もせずに、ね、必要なことは、必要な(事の折に?)、必要な物、必要な金があれば、物でも金でも、必要なだけは神様が、いわゆる( ? )して下さるというかねえ、(ええ?)おかげ下さる。なるほど、生きた神様だな、と。
えー、ご本部のこの前のあの、今の会堂のご造営があります時に、うーん、寄進勧化なしにでけたということを、ある宗教新聞の記者が尋ねてから、「もしそれが本当であるとするならば、これは世紀の奇跡ですよ」と言うたという話があります。金光家の場合はそうですよね。さあ、いくらかかるから、いくら出さんならん、いくあら出して下さいということは、だーれも言いませんの。むしろ、寄進勧化はいかんとこう、この御理解なんかに言うてありますから。
けれどもだんだん、いわゆる「氏子が真から用えるのが神もひれいじゃが」とこうおっしゃると。ね、「氏子が真から用いるのは神様のひれい」、いわゆる神様の勢いだ、神様のお力だ、とこういうのです。ねえ。
私、他所の人達が、もし、えー先月は2千何百万も払うた、今月は千何百万も払わんならんというふうに言うたら、ほんとと思わないだろうと思うです。電気量が百何十万て、なんて言うても、ほんとにせんと思うです。けれども、それが次々やはりでけていっておるという、もう事実がね。
だから、合楽の場合だってもそうです。次々と14年ですか、13年目、に、(24?)年目ですかねえ、合楽に参りまして、お広前がでけ、えー、新館がでけ、そして今度、信徒会館ができると、3回も、まあ大きなご建築があっとりますけれども、もうそれこそ、ああ、いくらいるけんで、いくら皆さんどうぞと、いうならば言うわけでもなからなければ、あーお供えを、いうならば寄進勧化するわけでも何でもないけれども、それができていっておる。
それこそ、その新、そのー○○新聞記者が、宗教新聞の記者が言ったという、もうそれがほんとであるとするならば、世紀の奇跡だと言われる。その世紀の奇跡と言われる、いうならば働きが、合楽の上には、もう日々起こっておる、それを、なら月々の、いわゆる支出の面から言うてもです。ね。
うふっ、世紀の奇跡と言われるような奇跡が、合楽教会の上には現われておるということでございます。それで私昨日聞いて、ちょうど研修の時でしたから、皆が(決してそのくらい覚え、あれがありよる?)ことじゃなかろうけれども、やはり、えー、いうなら始末倹約をせろと私は言わん。もう必要なことだけは、いくら使うても構わん。けれどもねえ、あの、無駄であったり、うっかりしておるといったようなことで、例えば、こりゃ、車が今何台ありましょうか、その油代だけであっても大したことです。ねえ。
ですから、無駄なことに使ったり、うっかりしておって、えー、それが、あーかさんでおるといったようなことでは、神様に対してご無礼(な?)。ここでは「心行・信行・家業の行」と、心行、心の行ということは、ね、例えば、電気一つ使わせて頂くでも、女の方達が、んなら、あー、洗濯機なら洗濯機を使わせて頂くでも、使わせて頂くその心掛けそのものが心行なんだからね、よかよか主義じゃ心行にはならんとじゃん。
今も私が、えーあのー、夜中に回ることを致しませんけれども、おー、一年ぐらい前までは、私は毎晩12時頃、ここを回りましたけれども、もうこの頃は、私は向こうの新館がでけて回れなくなりました。もうお医者さんが、どうでもここ一回りでもええから、散歩して下さいち言って、もう来るたんびに言われるけれども、一時はじ、一時は実行してましたけれど、おー、足が上がらんのです。
それで、もうこの頃この散歩も致しませんが、夜中の回りをもうしませんから今、あー他の先生方が、交代、誰か責任持って、あーこう夜警はしよりますでしょ。私はもう、こりゃもう毎、たんべんに毎晩どこにか電気を消し忘れとるですね。
一番、あの消し忘れとると(は?)、このお玄関ん所です。あれは恐らく先生方じゃなくて、ご信者さん方じゃろうと思う。帰る時に、もう(消やさんなり?)つーっと一番最後の人が出て行くのでしょうね。必ず点いてるです。
そして、まあだもう明々としとるとに、便所の電気が点いておったりするようなことが、たまたまあるです。ね。もちろん、これは自分のこととしてといったようなふうには思いません。けれども、お互いが、これほど心行を心掛けておるのであるから、ね、そういうようなことにでも心を使うという、ね、お粗末になっては、ご無礼になってはならないと。ね。
もうこれは、ほんとに反古紙一枚の上にもです、私のは、ここにあの、うーん、紙は切っとって、ここで必ず私がいろいろ手控えをするとに使いますし、鉛筆なんかでも私はこんなにして使うです。もう(次この?)、まあこのくらいは使うた、誰かがまたこん、長いとと替えてくれとるですけれどもね。もうそれこそ、使い捨てはもう美徳のように、一時言われるような時代があったんですけれどもね、やはりもったいない。
私は鉛筆でも、芯から(も?)、ここで削られるまでは削って、いわゆる( ? )のようになったら、こんな(たてめん?)をつけてね、使うです。(こんもり?)私はもう一事が万事にそうです。ね、というて、なら、あーもうもったいなかけんで、この暑いとに冷房やらいらんといったようなこと(には?)、もう使、必要な時に使うことは、どれだけ使うた、まあそういう話を昨日、研修前に私が話したんですよ。
そしたら、神様からここで頂くとが、あの「すずきぜんま」ということを頂くです。皆さんもテレビでよくご覧になるでしょう。あの外人の人が、あの、船の上に立ってから、あのー、おー、「空が好きだ、海が好きだ」という台詞、台詞というか、なんか宣伝文句を使ってるのがありますよね。どういうことであろう。
私が今、ならうちの修行生の方達にですね、始末倹約せろとは言わんけれども、なら電気一つでも、とにかく言うならば、電気代が100万からも払わんならんというようなことですから、皆さんが粗末に使うたから、(こんな?)とは言わんけれども、お互い心しなければいけないよという、その、まあ話をした後に、神様が私に下さることは「すずきぜんま」ということを頂くです。
私はどういうことか知りませんけれどもね、その、あーテレビでいっつも見るんで、時に聞くんです。ね。私はその、海を見るのが好きだ、風が好きだ、こう言ってる。空が好きだとかなんか言ってます。
それで、それ頂いてから私は、ハッと自分に、それこそ我に返ったように、そのことを思うてみたんですけれども、ねえ。「すずき」というのは、金偏にゼロという数字が書いちゃるでしょう。ね。木は心です。「ぜんま」っちゅうことは、どういうことか分からんけども、その言っておる、その台詞がですね、「空が好きだ、海が好きだ」とこう言っておる。いうならば、自然が好きだと、こういう意味でしょう、ね。ねえ。
(こりゃ?)私の場合には、好きとか嫌いとかということじゃないけども、いつも天地との交流、つながりということを、皆さんにも説きますし、私自身も絶えず!つながっ、交流しておらなければでけない。
例えば、なら私が、そういう修行生の先生方にお話をしている時に、もう間髪入れず神様が下さるのは、私と天地がいつも交流しておるから、そういう働きが起こってくるんです。ね。そして、その「すずきぜんま」という、その、あーテレビのなんかのコマーシャルでしょうけれども、それから私が感じたことですけれども、ね、いくら金がかかろうがです、ね、千万が2千万かかろうが、お前が払うわけじゃない(笑)、神が払うのじゃとこう。
金はない、ゼロと。そういう心、木は心、そういう心でおれよと。お前は空が好きだ、いうなら海が好きだと。いうならば自然との交流を、第一の生き方として、日々を過ごさせて頂いておるじゃないか。おかげで不安はない、心配いらない、怖いこともない。というように、私自身そう思ってるんです、毎日そういう生活させて頂いとるです。不安はない、心配はない。私の行く手には難儀はない、困ったこともない。ね。
そういう心の状態を開かせて頂いておるということですから、なら、いくらお金がかかるというたところでです、それを、例えば、もちろん不安、心配、そーりゃ、そげんかかったの。ちっと始末倹約せにゃいかんばいというような心も起こらんのだけれども、ちらっとでも、そういう心があってはならんと、天地は私は言いかけておられるというものを感じました。その「すずきぜんま」という( ? )中から。
それこそ、ね、1円だって10円だって、ね、お前が手作りにできることはない。合楽で行われておる必要な金は必要なだけ、神が集めておるのだと。ね。だから、これは私はいつも思うんですけれども、その、まあたくさんなお金を出させて頂けれるということは、ね、預金があるわけでもなーんでもないけれども、必要なだけが必要なだけ、私はほんとに素晴らしい、お互いがですね、えー、その日暮らしがでけるおかげを、まずは頂かにゃいかんです。ね。
千円のその日暮らしもありましょう。1万円のその日暮らしもありましょう。ね、10万円のその日暮らしもあります。ね。ですから、できるだけ、いうなら、大きな額のその日暮らしができるような、しかも明日のことには不安もない、心配はない。ね。というような心の状態が開けてくるようなおかげを頂きたい。
私は、ご信心してね、あのー、心の状態の中に、ほんとに不安がない、心配はない。ね、そういう心の状態を開いていくこと。ね。いわゆる「私の前には難儀はない」、という、いうなら心の状態が、ほん、いよいよほんとなものになっていくに従ってです、ね、必要な物であるならば、必要なだけは神様が下さるんだという生き方、生活。ね。それを、いうならば、それこそ一切が神様の御物であるという自覚ができなきゃなりません。
してみると、(んなら?)皆さんの場合がです、ね、千円のお供えがでけるよりも、2千円のお供えがでけたほうがおかげということが分かりますね。2千円のお供えよりも、1万円の(おひとどけ?)がでけるほどおかげを頂いたら、もっと有り難いですね。ね。 「それが神のひれいじゃから」と仰せられるように、ひれいに浴することができることの、合楽教会の場合は、それこそ世紀の奇跡と思われるようなおかげを受けておるのは…。ねえ。ね、一切が神様の御物である、という、まあ、その、いわば管理を仰せつかっておるだけであって、ね。それを、なら必要なだけは必要だけ神様出して下さるのに、「これはちょっと出しすぎるの。これはちょっと考えなきゃいけんばい、ちっと始末せないかんばい、倹約せにゃいかんばい」という心は、ほんとにさらさらないと思うんですけれども、けれども、「ほおー、そげん(要りよん?)の」という中には、やっぱちらっと、やっぱ、その、お粗末後無礼があったりはせんかというようなことを思うわけですね。
そしたら、んなら神様からです、頂いた、いわゆる「すずきぜんま」という。その台詞は「空が好きだ、海、海が、う、空が、あーん、海が好きだ」といったようなね、そのことから、私が感じさせて頂いた、もういよいよもって、神様のおかげを頂かなければできることではないのですから、ね。
例えば、あー、月々、ね、2千万か3千万、例えばいるようになりましても、ね、むしろ多くなれば多くなる、支出が多くなればなるほど、お礼を申し上げなければならんということになります。皆さんの場合は、たくさんなお供えができるようになれば、できるようになるほど、お礼を申し上げんならんが、そのできるようなおかげを頂くことのために、まず私をなくしなければいけないということです。
私の物というものは、ね、一切、ね、神様の御物、神様のお金、一切が神様の御物であるという、ね、これは甘木の初代のご信心です。「一切が神様の御物だ」と、すべてのものに御の字をつけられた。
もちろん、寄進勧化は、教祖様はお嫌いであった。けれども、氏子がおかげを受けて、生き生きとして、いうならば、大きなお役にでも、御用にでも立たして頂けるようなおかげを、皆さんが頂いて下さるということは、神のひれいであり、金光大神の喜びである、私は思います。っね。
お互い、しみったれた根性というものを、まず捨てて、ね、大きく有り難く、生き生きとして、お役に立てれる私。そこに神のひれいじゃとおっしゃる、その神のひれいをまた、私の身の上にも、私の家の上にも、頂き現すことができるということになるのじゃないでしょうかね。どうぞ。